【どうか目を向けてほしい】戦争の外側にいる、声なき人々のこと

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最近、あるニュースを見て、胸が締め付けられました。
上海で働く中国人ガイドが、イランからの観光団を案内したという話です。
本来であれば、心弾むはずの旅。
彼らも、出発前はきっと期待と楽しみでいっぱいだったでしょう。
しかし、ガイドはこう語りました。
それは彼のキャリアの中で、「最も悲しいツアーだった」と。
彼らの祖国・イランは、ちょうどその時、ミサイル攻撃を受けていました。
家を失った人、家族と連絡が取れなくなった人もいました。
きらびやかで平和な上海の街にいながら、
彼らはずっとうつむき、スマホを手放すことなく、遠く離れた故郷の安否を祈り続けていたのです。
“世界を見に来た”はずの旅は、一瞬で“戦争の現実”に引き戻されてしまったのです。
ガイドの言葉が、今も忘れられません。
「あの人たちは、観光客じゃなく、“必死に感情を抑える避難民”のようでした」
戦争は、決して抽象的なものではない
それは、普通の人々に降りかかっている
「イランとイスラエルの衝突」「ミサイル発射」
そんな言葉を聞くと、地政学や国際関係、軍事的な話として片付けてしまいがちです。
でも、実際にそれを経験している人にとって、それは決して“国と国の問題”ではありません。
それは──
壊された家、
夜中に繋がらない電話、
泣きじゃくる子ども、
返ってこないメッセージ。
戦争がもたらす最大の代償は、
会議室の中ではなく、普通の人々の日常に蓄積されていくものなのです。

世界には、名前のない“被害者たち”がいる
そして、その多くは黙ったまま苦しんでいる
彼らの名前を、私たちは知らない。
国際会議にも、メディアの見出しにも載らない。
でも、彼らは確かに存在しています。
スマホを握りしめて眠れず、
「無事だよ」という一通のメッセージを待ち続けている人がいます。
「私の街はまだあるのか」とSNSで検索し続ける人がいます。
海外旅行中に、突然“心だけ帰れない人”になってしまった人がいます。
その心は、平和な場所から、遠く離れた戦火の中で引き裂かれています。
「戦争に関心を持つ」だけではなく、「人に目を向ける」こと
戦争という言葉には、歴史も宗教も政治も絡んでいて、たしかに複雑です。
けれど、もし私たちが戦略や国益の話ばかりに目を向けて、
“そこに生きる人々の姿”を忘れてしまったなら──
この戦争はもっと冷たく、もっと悲しいものになってしまいます。
上海で涙をこらえていたイラン人の観光客たち。
彼らは、きっと今、世界中にいる“何の罪もない人々”の象徴です。
戦争に参加していないのに、戦争に人生を巻き込まれてしまった人たちです。

私たちにできることは、小さくても、ゼロじゃない
- あのニュースを見て、スルーせずに共有すること
- あの旅行団のことを忘れないこと
- コメント欄に、「ご家族が無事でありますように」と書くこと
それだけでも、尊重の気持ちであり、小さな温かさでもあります。
結びに──もし、少しでも心が動いたなら、どうか、そのままにしないで
この世界で、最も大きな力は、ミサイルでも、政治家の命令でもないのかもしれません。
それは、“無関心にならない心”です。
戦争の前では、私たちは確かに無力かもしれません。
でも、善意は無力じゃない。
目をそらさないこと、
想像しようとすること、
小さな共感を忘れないこと。
それが、いつか誰かを、暗闇から救う光になるかもしれません。
どうか、彼らのことも見てあげてください。
